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カスタマーレビュー
おすすめ度:
「晩春」と鮮やかな好一対をなす名作
(2008-11-08)
60年公開の、小津監督カラー作品第4作で、原節子を起用したカラー映画としては最初の作品。「晩春」と似たストーリーで、配偶者を亡くして親が娘の結婚を心配し、娘は寂しくなる親の将来を案じて結婚を考えたくない。そういう中で娘が結婚しやすくしようと親の再婚話が浮上し、娘は不潔だと反発する騒動がもちあがるが、最後には親は「今さらもう一度麓から山へ登るなんてこりごり」と自分は再婚しないが、「あなたはこれからなんだし、先々どんな幸せが待っているかわからないじゃない」と娘を最後の2人旅行の宿の夜にさとす。そして娘は結婚式を無事終え、親は寂しくなった家に戻り、万感胸に迫るものを感じつつ、うっすら笑みを浮かべて静かに終わる。粗筋だけ見ると晩春と同じではないかと思うが、晩春とは男女の立場を一部入れ替え、また世相の変化を反映している。すなわち、「晩春」と対比すると、以下のようになる(左が「晩春」、右が本作)。
親:父親(笠智衆)、母親(原節子)
娘:原節子、司葉子
結婚相手:登場せず(見合い)、佐田啓二(佐分利信の紹介→自由な交際)
世話焼き人:親の妹(杉村春子)、亡父の友人3人組(佐分利信、中村伸郎、北竜二)
親と世話焼き人の男女が入れ替わっているのが面白い。特に3人組は飲み友達で、北竜二は昔からのあこがれの女性と結婚できるのかと心ときめかせるが、結局ダシに使われただけ。この3人組と娘の同僚・岡田茉莉子が映画全体をユーモラスなトーンにしている。しかし、一番心に染みるのは親子での最後の2人旅行となる宿の夜の場面だ。原節子の屈指の名演技といっていいだろう。そして変わらぬ原節子の美貌。まさに「雨に悩める海棠」だ。
これまた完璧な
(2008-10-23)
戦前のサイレント時代に岡田時彦というたいへん美男の俳優さんがいて、小津作品にも何本か出演している。芸域がとても広いひとで、悲劇のヒーローからドタバタコメディからなんでもできたそうである。残念ながら30代前半で肺結核のため他界して、トーキー時代まで生き延びることはなかった。
話は変わって、岡田茉莉子がこの映画に出演したあとで、なぜ自分にこの役をあてたのかと小津に直接問いただしたらしい。小津の答えが
「岡田時彦の娘だから多分できると思った。」
簡単ですが、大変重みのある答えです。この映画における彼女の演技はかなり難しい。従来の日本映画にはあまりない役で、ハリウッド風コメディ映画のバタ臭さを要求される。本作の出来は彼女にかかっていると言っても過言ではないのだが、その難役を見事に演じ切って、本作を傑作に仕上げている。つまりは「血」のなせるワザか?
亡き友の娘の嫁入り先を案ずる三人のオヤジたち(佐分利信、中村伸郎、北竜二)がいる。その娘の友人で、三人オヤジを手玉にとるチャキチャキ娘が彼女の役。本作の喜劇的なトーンを決定的にしているのは、三人オヤジと岡田の絶妙のアンサンブルで、まるでクラシック音楽の対位法のような効果を生んでいる。
「亡き友」の未亡人が原節子、娘は司葉子。司の結婚相手に佐田啓二。三人オヤジのなかでヤモメの北竜二が、他の二人に原節子と結婚しろとそそのかされて、すっかりその気になるのもおかしいし、彼らの会話にさりげなく、猥談が盛り込まれているのも一興。そしてカラー撮影に慣熟してきたと思われる小津の演出は、いろいろな意味で円熟の極みといえよう。他に岡田の斬新な衣装など、見所はじつに多い。これまた必見です。
日本の聖女といわれた女優、原節子。
(2008-03-03)
1940年代より、その清らかな美貌で聖女とまで言われた女優こと原節子の貴重なカラー作品、公開は1960年ですから引退の2年前の作品ですね、夫の死から6年、女手ひとつで一人娘を育てた母、娘ももう24歳、そろそろ結婚を考えなければならない年齢なのだが、娘は母親が心配でならない、49年公開作品、晩春を思わせる名作、当時、原節子は40台前半ですが、とても若々しく美しい、彼女の娘役を司葉子が演じているのも面白い、お勧めです。
秋日和の「ねえ、そろそろよ!」
(2008-01-05)
ごく平凡なエピソードが描かれている小津作品は、
それを見るものに深い驚きをあたえる。
なぜなら、その作品は、
それ自体は凡庸である出来事同士が時空を越えて共鳴しあう場だからだ。
例えば、『秋日和』(1960)には母の原節子と、
結婚することを決めた娘の司葉子が旅先でゆで小豆を食べ、
窓から榛名富士の見える景色を一緒に眺めるシーンがある。
この充実したひとときに、
画面の左から右へ一艘の船が湖の上をすーっと滑走していく。
この船の滑走は、前のシーンで司葉子がビルの屋上から見た
列車の走行と反映しあっていると思う。
――問題の屋上シーンとは次のようなものだ。
「ねえ、そろそろよ!」
丸の内のオフィスで司葉子が腕時計を覗き、
隣に並んで仕事をしている岡田茉莉子にささやくように声をかける。
新婚旅行に出かける同僚の女友達の乗った列車を待ちあわせるため、
二人は秋日和の屋上にあがりやがて走ってきた列車に手を振る。
しかし、女友達は約束していたように列車の窓から花束を振ってくれない。
「女の友情ってこんなものかしら!?」
二人は、寂しそうに職場に戻る。
列車の走行が女友達との友情の終わりを導いたように、
「ゆで小豆」のシーンの船の滑走が母娘の別れを導くと考えることは
不思議ではない。
なぜなら、『秋日和』では司葉子をとりまく周辺の事象が
不自然なまでにシンクロナイズしているせいだ。
実際、上記の屋上のシーンでは、
司葉子と岡田茉莉子の動作が美しくシンクロナイズしている。
屋上の手前に向かい合わせに空のベンチが二つ据えられている。
青空に赤いアドバルーンが二つ浮かんでいる。
列車と都電が並んで走っていく……。
さらに、上記を含め全部で三つある屋上のシーンを比較すると、
外界をシンクロナイズさせているのは
司葉子が不思議な力をおよぼしているからと考えたくなる。
昼休み、たくさんの人がいる二番目の屋上のシーンでは、
司葉子はひとり離れて立っている。
そこではあいかわらず列車と都電が並走し、アドバルーンも二つあがっている。
ベンチは今度は空ではない。
女が左に二人右にも二人座っている。
おまけに、
このシーンの直後に司葉子と佐田啓二がラーメンを食べるアクションは、
第一のシーンの司葉子と岡田茉莉子のそれとおなじように
シンクロナイズしている。
司葉子がいない最後の屋上のシーンでは、
渡辺文雄と並んで岡田茉莉子が立っている。
このとき、列車の走行は示されないし、
アドバルーンも一つしか浮かんでいない。
ベンチにも男が左に二人右に一人である。
飛んできたバトミントンのシャトルを渡辺文雄が投げ返す。
次にボールを岡田茉莉子が投げ返す。
この交互の動作は最初のシーンの同時の動作と明らかに異なっている。
以上三つのシーンの比較から、
シンクロナイゼーションを引きおこしているのは司葉子と結論せざるをえない。
なお、『麦秋』(1951)には
『秋日和』の「屋上」と「ゆで小豆」のシーンと同じような画面の関係がある。
戦争に行ってそのまま帰ってこない息子の話題に
菅井一郎と東山千栄子が触れるシーンがある。
このとき画面に鯉のぼりが挿入される。
これは「屋上」のシーンに対応する。
次の場面では、
二人は博物館の庭に並んで座ってパンのようなものを一緒に食べている。
「今が一番いいときかもしれないよ……」
菅井一郎が、その後の家族の別離を予告するように呟く。
このとき空に風船が飛ぶ画面が挿入される。
この場面は「ゆで小豆」のシーンに対応する。
以上は、別離の前の充実したひとときに
外界の事象までが参加してしまう小津の演出例を示したにすぎない。
しかしこのような例でもわかるように、
小津作品はごく日常的事象を描いたとしても、お互いを共鳴させることで
その画面を見るものに深い感動をあたえることができる。
「ねえ、そろそろよ!」
(2008-01-05)
ごく平凡なエピソードが描かれている小津作品は、
それを見るものに深い驚きをあたえる。
なぜなら、その作品は、
それ自体は凡庸である出来事同士が時空を越えて共鳴しあう場だからだ。
例えば、『秋日和』(1960)には母の原節子と、
結婚することを決めた娘の司葉子が旅先でゆで小豆を食べ、
窓から榛名富士の見える景色を一緒に眺めるシーンがある。
この充実したひとときに、
画面の左から右へ一艘の船が湖の上をすーっと滑走していく。
この船の滑走は、前のシーンで司葉子がビルの屋上から見た
列車の走行と反映しあっていると思う。
――問題の屋上シーンとは次のようなものだ。
「ねえ、そろそろよ!」
丸の内のオフィスで司葉子が腕時計を覗き、
隣に並んで仕事をしている岡田茉莉子にささやくように声をかける。
新婚旅行に出かける同僚の女友達の乗った列車を待ちあわせるため、
二人は秋日和の屋上にあがりやがて走ってきた列車に手を振る。
しかし、女友達は約束していたように列車の窓から花束を振ってくれない。
「女の友情ってこんなものかしら!?」
二人は、寂しそうに職場に戻る。
列車の走行が女友達との友情の終わりを導いたように、
「ゆで小豆」のシーンの船の滑走が母娘の別れを導くと考えることは
不思議ではない。
なぜなら、『秋日和』では司葉子をとりまく周辺の事象が
不自然なまでにシンクロナイズしているせいだ。
実際、上記の屋上のシーンでは、
司葉子と岡田茉莉子の動作が美しくシンクロナイズしている。
屋上の手前に向かい合わせに空のベンチが二つ据えられている。
青空に赤いアドバルーンが二つ浮かんでいる。
列車と都電が並んで走っていく……。
さらに、上記を含め全部で三つある屋上のシーンを比較すると、
外界をシンクロナイズさせているのは
司葉子が不思議な力をおよぼしているからと考えたくなる。
昼休み、たくさんの人がいる二番目の屋上のシーンでは、
司葉子はひとり離れて立っている。
そこではあいかわらず列車と都電が並走し、アドバルーンも二つあがっている。
ベンチは今度は空ではない。
女が左に二人右にも二人座っている。
おまけに、
このシーンの直後に司葉子と佐田啓二がラーメンを食べるアクションは、
第一のシーンの司葉子と岡田茉莉子のそれとおなじように
シンクロナイズしている。
司葉子がいない最後の屋上のシーンでは、
渡辺文雄と並んで岡田茉莉子が立っている。
このとき、列車の走行は示されないし、
アドバルーンも一つしか浮かんでいない。
ベンチにも男が左に二人右に一人である。
飛んできたバトミントンのシャトルを渡辺文雄が投げ返す。
次にボールを岡田茉莉子が投げ返す。
この交互の動作は最初のシーンの同時の動作と明らかに異なっている。
以上三つのシーンの比較から、
シンクロナイゼーションを引きおこしているのは司葉子と結論せざるをえない。
なお、『麦秋』(1951)には
『秋日和』の「屋上」と「ゆで小豆」のシーンと同じような画面の関係がある。
戦争に行ってそのまま帰ってこない息子の話題に
菅井一郎と東山千栄子が触れるシーンがある。
このとき画面に鯉のぼりが挿入される。
これは「屋上」のシーンに対応する。
次の場面では、
二人は博物館の庭に並んで座ってパンのようなものを一緒に食べている。
「今が一番いいときかもしれないよ……」
菅井一郎が、その後の家族の別離を予告するように呟く。
このとき空に風船が飛ぶ画面が挿入される。
この場面は「ゆで小豆」のシーンに対応する。
以上は、別離の前の充実したひとときに
外界の事象までが参加してしまう小津の演出例を示したにすぎない。
しかしこのような例でもわかるように、
小津作品はごく日常的事象を描いたとしても、お互いを共鳴させることで
その画面を見るものに深い感動をあたえることができる。
おすすめ度:
「晩春」と鮮やかな好一対をなす名作
60年公開の、小津監督カラー作品第4作で、原節子を起用したカラー映画としては最初の作品。「晩春」と似たストーリーで、配偶者を亡くして親が娘の結婚を心配し、娘は寂しくなる親の将来を案じて結婚を考えたくない。そういう中で娘が結婚しやすくしようと親の再婚話が浮上し、娘は不潔だと反発する騒動がもちあがるが、最後には親は「今さらもう一度麓から山へ登るなんてこりごり」と自分は再婚しないが、「あなたはこれからなんだし、先々どんな幸せが待っているかわからないじゃない」と娘を最後の2人旅行の宿の夜にさとす。そして娘は結婚式を無事終え、親は寂しくなった家に戻り、万感胸に迫るものを感じつつ、うっすら笑みを浮かべて静かに終わる。粗筋だけ見ると晩春と同じではないかと思うが、晩春とは男女の立場を一部入れ替え、また世相の変化を反映している。すなわち、「晩春」と対比すると、以下のようになる(左が「晩春」、右が本作)。
親:父親(笠智衆)、母親(原節子)
娘:原節子、司葉子
結婚相手:登場せず(見合い)、佐田啓二(佐分利信の紹介→自由な交際)
世話焼き人:親の妹(杉村春子)、亡父の友人3人組(佐分利信、中村伸郎、北竜二)
親と世話焼き人の男女が入れ替わっているのが面白い。特に3人組は飲み友達で、北竜二は昔からのあこがれの女性と結婚できるのかと心ときめかせるが、結局ダシに使われただけ。この3人組と娘の同僚・岡田茉莉子が映画全体をユーモラスなトーンにしている。しかし、一番心に染みるのは親子での最後の2人旅行となる宿の夜の場面だ。原節子の屈指の名演技といっていいだろう。そして変わらぬ原節子の美貌。まさに「雨に悩める海棠」だ。
これまた完璧な
戦前のサイレント時代に岡田時彦というたいへん美男の俳優さんがいて、小津作品にも何本か出演している。芸域がとても広いひとで、悲劇のヒーローからドタバタコメディからなんでもできたそうである。残念ながら30代前半で肺結核のため他界して、トーキー時代まで生き延びることはなかった。
話は変わって、岡田茉莉子がこの映画に出演したあとで、なぜ自分にこの役をあてたのかと小津に直接問いただしたらしい。小津の答えが
「岡田時彦の娘だから多分できると思った。」
簡単ですが、大変重みのある答えです。この映画における彼女の演技はかなり難しい。従来の日本映画にはあまりない役で、ハリウッド風コメディ映画のバタ臭さを要求される。本作の出来は彼女にかかっていると言っても過言ではないのだが、その難役を見事に演じ切って、本作を傑作に仕上げている。つまりは「血」のなせるワザか?
亡き友の娘の嫁入り先を案ずる三人のオヤジたち(佐分利信、中村伸郎、北竜二)がいる。その娘の友人で、三人オヤジを手玉にとるチャキチャキ娘が彼女の役。本作の喜劇的なトーンを決定的にしているのは、三人オヤジと岡田の絶妙のアンサンブルで、まるでクラシック音楽の対位法のような効果を生んでいる。
「亡き友」の未亡人が原節子、娘は司葉子。司の結婚相手に佐田啓二。三人オヤジのなかでヤモメの北竜二が、他の二人に原節子と結婚しろとそそのかされて、すっかりその気になるのもおかしいし、彼らの会話にさりげなく、猥談が盛り込まれているのも一興。そしてカラー撮影に慣熟してきたと思われる小津の演出は、いろいろな意味で円熟の極みといえよう。他に岡田の斬新な衣装など、見所はじつに多い。これまた必見です。
日本の聖女といわれた女優、原節子。
1940年代より、その清らかな美貌で聖女とまで言われた女優こと原節子の貴重なカラー作品、公開は1960年ですから引退の2年前の作品ですね、夫の死から6年、女手ひとつで一人娘を育てた母、娘ももう24歳、そろそろ結婚を考えなければならない年齢なのだが、娘は母親が心配でならない、49年公開作品、晩春を思わせる名作、当時、原節子は40台前半ですが、とても若々しく美しい、彼女の娘役を司葉子が演じているのも面白い、お勧めです。
秋日和の「ねえ、そろそろよ!」
ごく平凡なエピソードが描かれている小津作品は、
それを見るものに深い驚きをあたえる。
なぜなら、その作品は、
それ自体は凡庸である出来事同士が時空を越えて共鳴しあう場だからだ。
例えば、『秋日和』(1960)には母の原節子と、
結婚することを決めた娘の司葉子が旅先でゆで小豆を食べ、
窓から榛名富士の見える景色を一緒に眺めるシーンがある。
この充実したひとときに、
画面の左から右へ一艘の船が湖の上をすーっと滑走していく。
この船の滑走は、前のシーンで司葉子がビルの屋上から見た
列車の走行と反映しあっていると思う。
――問題の屋上シーンとは次のようなものだ。
「ねえ、そろそろよ!」
丸の内のオフィスで司葉子が腕時計を覗き、
隣に並んで仕事をしている岡田茉莉子にささやくように声をかける。
新婚旅行に出かける同僚の女友達の乗った列車を待ちあわせるため、
二人は秋日和の屋上にあがりやがて走ってきた列車に手を振る。
しかし、女友達は約束していたように列車の窓から花束を振ってくれない。
「女の友情ってこんなものかしら!?」
二人は、寂しそうに職場に戻る。
列車の走行が女友達との友情の終わりを導いたように、
「ゆで小豆」のシーンの船の滑走が母娘の別れを導くと考えることは
不思議ではない。
なぜなら、『秋日和』では司葉子をとりまく周辺の事象が
不自然なまでにシンクロナイズしているせいだ。
実際、上記の屋上のシーンでは、
司葉子と岡田茉莉子の動作が美しくシンクロナイズしている。
屋上の手前に向かい合わせに空のベンチが二つ据えられている。
青空に赤いアドバルーンが二つ浮かんでいる。
列車と都電が並んで走っていく……。
さらに、上記を含め全部で三つある屋上のシーンを比較すると、
外界をシンクロナイズさせているのは
司葉子が不思議な力をおよぼしているからと考えたくなる。
昼休み、たくさんの人がいる二番目の屋上のシーンでは、
司葉子はひとり離れて立っている。
そこではあいかわらず列車と都電が並走し、アドバルーンも二つあがっている。
ベンチは今度は空ではない。
女が左に二人右にも二人座っている。
おまけに、
このシーンの直後に司葉子と佐田啓二がラーメンを食べるアクションは、
第一のシーンの司葉子と岡田茉莉子のそれとおなじように
シンクロナイズしている。
司葉子がいない最後の屋上のシーンでは、
渡辺文雄と並んで岡田茉莉子が立っている。
このとき、列車の走行は示されないし、
アドバルーンも一つしか浮かんでいない。
ベンチにも男が左に二人右に一人である。
飛んできたバトミントンのシャトルを渡辺文雄が投げ返す。
次にボールを岡田茉莉子が投げ返す。
この交互の動作は最初のシーンの同時の動作と明らかに異なっている。
以上三つのシーンの比較から、
シンクロナイゼーションを引きおこしているのは司葉子と結論せざるをえない。
なお、『麦秋』(1951)には
『秋日和』の「屋上」と「ゆで小豆」のシーンと同じような画面の関係がある。
戦争に行ってそのまま帰ってこない息子の話題に
菅井一郎と東山千栄子が触れるシーンがある。
このとき画面に鯉のぼりが挿入される。
これは「屋上」のシーンに対応する。
次の場面では、
二人は博物館の庭に並んで座ってパンのようなものを一緒に食べている。
「今が一番いいときかもしれないよ……」
菅井一郎が、その後の家族の別離を予告するように呟く。
このとき空に風船が飛ぶ画面が挿入される。
この場面は「ゆで小豆」のシーンに対応する。
以上は、別離の前の充実したひとときに
外界の事象までが参加してしまう小津の演出例を示したにすぎない。
しかしこのような例でもわかるように、
小津作品はごく日常的事象を描いたとしても、お互いを共鳴させることで
その画面を見るものに深い感動をあたえることができる。
「ねえ、そろそろよ!」
ごく平凡なエピソードが描かれている小津作品は、
それを見るものに深い驚きをあたえる。
なぜなら、その作品は、
それ自体は凡庸である出来事同士が時空を越えて共鳴しあう場だからだ。
例えば、『秋日和』(1960)には母の原節子と、
結婚することを決めた娘の司葉子が旅先でゆで小豆を食べ、
窓から榛名富士の見える景色を一緒に眺めるシーンがある。
この充実したひとときに、
画面の左から右へ一艘の船が湖の上をすーっと滑走していく。
この船の滑走は、前のシーンで司葉子がビルの屋上から見た
列車の走行と反映しあっていると思う。
――問題の屋上シーンとは次のようなものだ。
「ねえ、そろそろよ!」
丸の内のオフィスで司葉子が腕時計を覗き、
隣に並んで仕事をしている岡田茉莉子にささやくように声をかける。
新婚旅行に出かける同僚の女友達の乗った列車を待ちあわせるため、
二人は秋日和の屋上にあがりやがて走ってきた列車に手を振る。
しかし、女友達は約束していたように列車の窓から花束を振ってくれない。
「女の友情ってこんなものかしら!?」
二人は、寂しそうに職場に戻る。
列車の走行が女友達との友情の終わりを導いたように、
「ゆで小豆」のシーンの船の滑走が母娘の別れを導くと考えることは
不思議ではない。
なぜなら、『秋日和』では司葉子をとりまく周辺の事象が
不自然なまでにシンクロナイズしているせいだ。
実際、上記の屋上のシーンでは、
司葉子と岡田茉莉子の動作が美しくシンクロナイズしている。
屋上の手前に向かい合わせに空のベンチが二つ据えられている。
青空に赤いアドバルーンが二つ浮かんでいる。
列車と都電が並んで走っていく……。
さらに、上記を含め全部で三つある屋上のシーンを比較すると、
外界をシンクロナイズさせているのは
司葉子が不思議な力をおよぼしているからと考えたくなる。
昼休み、たくさんの人がいる二番目の屋上のシーンでは、
司葉子はひとり離れて立っている。
そこではあいかわらず列車と都電が並走し、アドバルーンも二つあがっている。
ベンチは今度は空ではない。
女が左に二人右にも二人座っている。
おまけに、
このシーンの直後に司葉子と佐田啓二がラーメンを食べるアクションは、
第一のシーンの司葉子と岡田茉莉子のそれとおなじように
シンクロナイズしている。
司葉子がいない最後の屋上のシーンでは、
渡辺文雄と並んで岡田茉莉子が立っている。
このとき、列車の走行は示されないし、
アドバルーンも一つしか浮かんでいない。
ベンチにも男が左に二人右に一人である。
飛んできたバトミントンのシャトルを渡辺文雄が投げ返す。
次にボールを岡田茉莉子が投げ返す。
この交互の動作は最初のシーンの同時の動作と明らかに異なっている。
以上三つのシーンの比較から、
シンクロナイゼーションを引きおこしているのは司葉子と結論せざるをえない。
なお、『麦秋』(1951)には
『秋日和』の「屋上」と「ゆで小豆」のシーンと同じような画面の関係がある。
戦争に行ってそのまま帰ってこない息子の話題に
菅井一郎と東山千栄子が触れるシーンがある。
このとき画面に鯉のぼりが挿入される。
これは「屋上」のシーンに対応する。
次の場面では、
二人は博物館の庭に並んで座ってパンのようなものを一緒に食べている。
「今が一番いいときかもしれないよ……」
菅井一郎が、その後の家族の別離を予告するように呟く。
このとき空に風船が飛ぶ画面が挿入される。
この場面は「ゆで小豆」のシーンに対応する。
以上は、別離の前の充実したひとときに
外界の事象までが参加してしまう小津の演出例を示したにすぎない。
しかしこのような例でもわかるように、
小津作品はごく日常的事象を描いたとしても、お互いを共鳴させることで
その画面を見るものに深い感動をあたえることができる。

